ロールキャベツはトマト味

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開かないタケノコ瓶

開かない。右手にはタケノコの水煮が入っているガラス瓶。15cmほどの高さがあり、蓋が閉まっている。それはもう、それはもうキッチリと閉まっている。母からの贈り物で、「沢山いただいたから」と大量にタケノコの水煮瓶を量産し、私のところへと届いたわけである。マネーロンダリングならぬタケノコロンダリング。グルグルと巡るタケノコ。蓋がきっちり閉まっているタケノコ瓶。

開かない。マジで。母よ。何故ここまでキッチリ閉めたんだ。母よ。いくらなんでも閉めすぎじゃないか。かれこれ5分は格闘しているが、微動だにしないじゃないか。正直いうと少し疲れたぞ。母よ。右手がかなり痛いぞ。なんなら力を入れすぎて酸欠気味にもなってきた。チクショウ、今日は冷蔵庫のピーマンと、牛肉と、この、こいつを、このタケノコを使って青椒肉絲を晩ご飯に作ると決めているのだ。だ、と、い、う、の、に!

ゴム手袋を使ってみる。開かない。

タオルを使ってみる。開かない。

自分が開けようとしているのか、閉めようとしているのかわからなくなってきた。瓶を開けるのは時計回りなのか?反時計回りなのか?地球の自転は時計回りなら私は逆回転してる最中なのか?私が回して開けようとしているのか?それとも、瓶に私が回されているのか?流していたBGMが3曲目に差し掛かった。マジかよ。10分かかってる。右手はとうに握力を失い、ジンジンと痛む。なんなら左手も痛い。おぉ、タケノコよ。私が一体何をしたというのか。んぎぎぎぎ。

夫が帰ってきたのでラスボス、ならぬタケノコ瓶を渡す。難なく開けてくれるのかなと期待していたのだが、結構格闘していた。先程の私のように顔をしかめて蓋を開けようと苦心している。んぎぎぎ。蓋はなんとか開けられた。無事に青椒肉絲も作れた。

母よ。あなたが最強。

 

パン作り1年生

今まで単機能のレンジ、要は温め機能しかついていない電子レンジを使っていたのだが、思い切ってオーブンレンジを買ってみた。理由は簡単。

「私もケーキとかパンとか焼きたい。」

である。いや、もうね。この1年と数ヶ月に外出の自粛やらなんやらで、家でケーキとかパンとか焼く人が増えたのなんの。なんなら、自家酵母まで作ってる猛者もいた。その様子を眺めていて、自分もやりたくなって、あれやこれやと工夫してみたものの、できるものは電子レンジとトースターを使ったもののみ。レパートリーは早々に底をつき、私の好奇心と食欲は、ジワジワと心を侵食していった。私も生地とか捏ねたい。私もチョコケーキとか焼きたい。うぅ。

そんなこんなで迎えたオーブンレンジ。あれやこれやと悩んだ結果、1番火力があるタイプのものにした。お料理メニューが沢山ある家電って、それこそ炊飯器からオーブンレンジまでありとあらゆるものが「私にお任せください!」とレシピブック付きで販売されているが、ワタクシ、それらの機能を使いません。いいなーとは思うけれど、結局いつものフライパンやら鍋やらで作ってしまう。そして大体の賢い電化製品はですね、非常にお高い。よって、単純に火力があるタイプ。君に決めた。よろしく頼むよとキッチンの棚に置いた。ドシンとした重みのある見た目で頼れそうだ。さぁ、パンを焼くぞ。

そして始まったパン作り生活。これがまた非常に難しく、それが楽しい。ベッチャリとしてボウルにへばりつくパン生地を台に出して、せっせと捏ねると次第にまとまってきて、ツルンとした生地になる。なにこれ可愛い。発酵している姿も可愛らしく、時間が経って膨らんだ生地を見ると、「偉いねえ。大きくなったねぇ。」と心にパン生地の祖母が登場して褒めてしまう。焼いている時も、グングンと大きく膨らむ生地を見て「いいぞ。頑張れ!」と思うし、出来上がったパンをクーラー(網のようなものです)に乗せて耳を近づけるとパリッパリッ…っと小さな音がする。生地が弾ける音だ。とても嬉しい。食べてみる。美味しい。嬉しい。

さて、パン作り1年生のまだまだヒヨッコである私だが目標がある。それは「綺麗なフランスパンを焼くこと」。これがまた難しい!本当に難しい。どれくらい難しいかというと、パン作りの本を読むと大体最後の「慣れてきた人向け」や「上級者向け」のコーナーにオホホと優雅な様子で豪華な椅子に扇子を広げつつ座っているマダム。それがフランスパンです。さすがおフランス。「パンが上手く焼けなければ、ケーキを焼けばいいじゃない」と心の偽マリー・アントワネットがヒソヒソと耳元で囁いてくるが、私は綺麗なフランスパンを焼きたいのだと準強力粉を持って逃げるしかないのである。何が言いたいんだこの文章。

いつか焼けるようになりたい綺麗なフランスパン。でもその時が来たら来たで寂しいのかもしれない。

面白くないわらび餅

関西弁で「しょうもない」という言葉がある。地域にもよるが、頻繁に使われる言葉なので、漫画やドラマなどで聞いたことのある人も多いだろう。
実用日本語表現辞典によれば、『「仕様もない」(しようもない)が変化した表現で、くだらない。どうでもいい。ばかばかしい。瑣末な。といった意味合いで用いられる表現。「しょうもない」と言うことが多い。』らしい。いやいや、ちょっと待ってほしい。ここに、「面白くない」の意味を足してくださいと関西人である私は叫ぶ。「何しょうもないこと言っとんねん。」や「しょうもなっ。」の言葉には確実に「面白くない」の意味が含まれるだろうからだ。

面白くない。つまらない。しょうもない。といった言葉からは少しばかりネガティブな感情と共に使われることが多い。しかし、これらの言葉たちが、ほんのちょっとだけ救われるジャンルがある。食事である。見た目麗しいパフェや血の滴るようなステーキ、流行りの高級食パンなどなど、刺激的で面白そうなグルメは世の中に沢山あるが、それ以上に沢山あって世の中の人を支えているのが「面白くない食事」だろう。いつもの納豆ご飯、いつものスープとパン、いつもの食堂のカレー…ハレの日よりもケの日の方が圧倒的に多いのだ。いつものご飯、いつもの味、見栄も飾り気もない食事は、どっしりと平然とした顔で人々の生活を過ぎていく。

さて、私の中で1番面白くない、もとい、しょうもない食べ物の話をしよう。わらび餅である。夏が近づくと和菓子コーナーに並べられるあのパック詰めされたわらび餅のことで、歴史ある厳かな和菓子屋さんのわらび餅のことではない。あの水色のパッケージにギュウギュウに詰められたわらび餅ときな粉を見ると「おぉ、もうそんな季節か。」とワクワクする。そして暑いシーズン中にいつも1つや2つほど買って食べてみるのだが、美味しくない。違う。味気がないと言った方がいいのかもしれない。きな粉をたっぷりとつけて食べては見るものの、わらび餅単体の味はほんのりとするだけだ。うーん、美味しくはない。でもこれがいい。なんというか、「美味しくはない」のが「美味しい」のだ。食べてみて特段驚きも喜びもないこの味に非常に安心感を覚える。何十年もの間、素知らぬ顔をして商品棚に並んでいる、そんな高くないお値段のわらび餅に敬礼までしたくなる。来年もよろしくと思いながら今年も購入した。もしかしたら、私、わらび餅のことが好きなのかもしれない。

「あぁ、これこれ。この味。このしょうもない味がええねん。」

暑くなってくる季節にこうして笑いながらわらび餅を食べるのが、私のとっておきの毎年の楽しみである。

バナナと元気

数年前に「日本人が1番食べている果物はバナナである」と知って大変驚いた。そして、1人あたり1年間で約20kg以上のバナナを食べていることも知って、更に驚いた。え?みかんじゃないの?

少しだけ寂しさをみかんに覚えつつ、引き続きバナナについて考えてみることにする。バナナ。美味しいですよねバナナ。カリウムと食物繊維が豊富で、そのまま皮を剥いてパクッと食べてもよし、ジュースにしてもよし、焼き菓子の生地に混ぜ込んでもよし、あの特徴的なネッチリとした食感と芳醇な香りは他の果物にはないという際立った存在なのに他の食べ物と相性がいいという懐が深さ、比較的お財布にも優しいお値段。そして何より、手で皮を剥けるというその手軽さ。

「大丈夫です。いつでも食べてください。自分、包丁とかまな板とかいらないんで。」

バナナの鮮やかな黄色と、滑らかなカーブをしたあの姿がそう語りかけている気がしてならない。手で剥けるのはみかんも同じではあるが、冬の味覚であり、春夏秋冬問わず「いつでもスーパーにいまーす!」とズラリと並べられたバナナには敵わないのだ。バナナ最強説である。

かの有名なヨハン・ゼバスティアン・バッハは、その功績から「音楽の父」と呼ばれていたが、バナナも「果物の父」と呼ばれてもいいのではないか。そこまで考えたが、いやいやそれは言い過ぎではないか。そんな葛藤を脳内で繰り広げた後、「なんだこの無駄な時間は」と目が覚めるまで5分ほどかかったことをここに書いておく。嗚呼、人生とは無駄の積み重ねである。

そういえば、バナナは老若男女問わず好かれているイメージがある。もちろん、私も幼い頃からバナナを食して生きてきた。なんなら母に「バナナは1日に2本までだからね。4本も5本も食べないこと。」とたしなめられたくらいバナナを食べていた。嬉しかったとき、悲しかったとき、部活を終えて小腹が空いたとき、夜中になんとなく口が寂しくなったとき、給食のデザート、夜店のチョコバナナ、クレープ屋のトッピング、どうしても行きたかったミュージカルに行けなくなったとき、そんなときにバナナはいた。いつでもいた。それがバナナである。

私は、風邪の時や気分が落ち込んだ時でも、バナナなら食べられるので、常備するようにしている。今こうして文章をポチポチと書いている間も、キッチンの片隅にバナナはいる。いつも変わらない味と姿をしているバナナに安心感を覚える。

バナナを齧ってみる。少しだけ、元気が出る。

食パンな肉まん

旅先の忘れられない味といえば、台湾で食べた肉まんが真っ先に脳内に浮かぶ。あれは転職先がようやく決まってすぐ行くことにした旅行だった。そして「台湾行きたい!来週!誰か一緒に行こ!」とツイッターに書き込んだら「行きまーす!」と手を挙げてもらったフォロワーと行くことになった旅行でもあった。フットワークの軽さよ。

ひたすら食べ歩きをしようということで旅行の打ち合わせ時にガイドブックを片手にGoogleMapを立ち上げて、「ここのお店行きたい!」と思った店にピンを刺していく作業は楽しかったな。また同じような体験が出来るのはいつになるだろうか。

さて、肉まんの話である。昼食を求めてふらふらと歩いていたら道端に人が並んでいるのを発見した。その行列の周りを見渡しても店らしきものはない。一体何だ?そう思いながら、その横を通り過ぎようとした。

「肉まん、みたいですね。」

そう隣にいた友人(フォロワー)に言われた。

肉まん、とな。美味しそうだけども。

「ちょっと待ったら蒸したてが買えるみたいなので私が並んでてもいいですか?」

どうやら友人の美味しいものレーダーが「これは絶対美味しいはず!」と反応しているようである。ならば止める理由はあるまいと、友人と一時的に解散することにした。ブラブラと散歩すること15分ほどだろうか。異国の地は歩いているだけでとても楽しい。元いた場所に戻ると、ニコニコと嬉しそうな表情をした友人が待っていた。手には大きな肉まん。嬉しそうな人を見るのは私も嬉しい。どうぞどうぞと食べるのを眺める。

「美味しい!」

友人のレーダーは、どうやらかなり優秀なようである。うわー!美味しそう!!と見ていたら「どうぞ〜。」と半分分けてもらった。優しい。

生地がフッカフカで持っただけで指で潰してしまいそうなくらい柔らかい。肉まんの生地の優しい温もりを感じながら、中の餡の香りを嗅ぐと胡椒なのか八角なのか、ほんのりスパイシーな香りがジューシーな肉の香りと共に鼻に入ってきた。ほわー。これは美味しそう。たまらず、かぶりつくと、よく練られた餡の歯応えと生地のフッカフカが合わさって最高に美味しかった。今まで日本でも肉まんをよく食べてきた方だとは思うが、ここまで美味しい肉まんは食べたことがない。生地が、生地がとにかくフカフカで焼きたての食パンを4枚切りとかにしてそのままフワッと包んだかのようなフカフカフワフワ感。あぁ、また食べたい。

勿体なかったので、少しだけ残して鞄に忍ばせておいたのを食べてみた。冷めてもあの生地のフワフワ感は失われておらず、蒸したてとはまた違った美味しさがあった。あぁ、また台湾に行きたい。

美味しい記憶と美味しい場所には、どこか魔法がかかっている気がする。

 

博多のごはん

2年ほど前の梅見の時期に友人と2人で福岡に旅行で行った。確か、新幹線のこだまが前売り格安チケットを売っていて「行こうぜ博多!」とトントン拍子で決まった旅行だったはず。

 

始発の新幹線に乗り込み約3時間、眠気と空腹に耐えながら博多駅に着いたとき、我々の胃袋は早くも限界である。理由は簡単、博多グルメを新幹線で移動中にこれでもかというくらい調べていたから。

「朝ご飯を…朝ご飯を食べましょう。」

そう言うや否や駅の案内板にダッシュで向かい、せっかく九州に来たのだからとJR九州が手がける卵の卵かけご飯が食べられる店に直行した。

これがもう美味しいのなんの。今まで卵かけご飯に対して、あのズルズル感とぼやけた味に若干の苦手意識を抱いていたが、「大丈夫!これが美味しい卵かけご飯ですよ!」と頭をはたかれたような衝撃だった。ほかほかの白ご飯は一粒一粒がしっかり立っていてそのままでも十二分に美味しいというのに、卵自身の濃厚な味とかけるだし醤油の味がまた合う。思わず、「美味しい美味しい」と声を出しながら食べていたら、友人も同じように「美味しい」とパァッと顔を明るくさせてした。

初っ端から九州グルメのレベルの高さに感動しつつ、駅のお土産コーナーの案内板を見ると「博多あまおうグルメ勢揃い」とある。ご存知の方も多いだろうが、あまおうとは苺の品種で、あまい、まるい、おおきい、うまい、の4つの単語の頭文字を取った名前である。そんな美味しい苺グルメがそこに勢揃いしてあるのなら、是非参りましょうと少し早足でお土産コーナーへ向かった。

「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった。」

そう書いたのは川端康成であるが、

「駅構内の連絡通路を抜けると、そこは天国であった。」

まさしくそんな光景が目の前に広がっていた。どこもかしこも、あまおうの商品が所狭しと並んでいて各店舗のスタッフが「美味しいですよ!」と声をあげて売り込んでいる。ひゃーどこのお店で買おうかと喜びの悲鳴をあげながらフロアを右往左往していると、とある店にずらりと行列ができていた。他の店も賑やかではあるが、こんなにも人が並んでいるのはここだけである。何だろう。チラリと横にいる友人の表情を見ると、気づいたのか好奇心の塊のような顔でこちらを見るので、ならば買いましょうと列に並ぶことに。お店の名前は「伊都きんぐ」。あまおう苺に特化した加工販売所である。

なになに。どうやら、あまおう苺の時期にあまおうをまるごと挟んだどら焼きを期間限定で売っていてそれが人を集めているようである。では、それを2つくださいと無事に購入。スタッフの女性の愛想も大変人懐っこい感じで良く、「帰りも来ますね」と軽い会話をしながらどら焼きを受け取った。見た目に反してずっしりと重い。これは期待できるぞと早速、空いていたバスの待合室で食べることにした。食に対して我慢ができない2人である。

伊都きんぐのあまおう苺どら焼き、あまりにも美味しすぎて「嘘やろ」と絶句した。なめらかな生地のしっとりふわふわ感、クリームとあんこの控えめな甘さ、果汁が詰まったジューシーなあまおう苺の歯応えと甘酸っぱさが合わさったときの美味しさときたら。どう言葉にしていいのかわからないくらい美味しかった。なんという完成度、なんというクオリティの高さ。

帰りも行こう。絶対に行こうねと友人と固く誓いながら我々はまた別の博多グルメを求めてバスに乗ったのであった。そう、これはまだJR博多駅内の話だったのである。

ソースか醤油か

目玉焼きにかける調味料の話である。人によっては、塩胡椒のみだったり、マヨネーズと醤油のコンビ技だったりするかもしれない。私は基本的には醤油派だが、たまにお好みソースをかけることもある。目玉焼きの黄身は半熟ではなく、7〜8割くらい火が通っているものが好きだ。黄身がしっとりしつつもホロッとしていてとても美味しい。フライパンに入れる油は多めにしておいて白身の縁にこんがりとしたレースのカーテンを着せるのも忘れないでほしい。

少し話は脇道にそれるが、日常の何気ない話題に、こういった「目玉焼きにかけるのはソースか醤油か」のような話題がよく出てくることが、私は好きだ。誰も傷つけないし、盛り上がるし楽しい。そういえば、このブログを作ったきっかけも「食に関することならネタに困ることがないだろう」と思ったからだった。それくらい、「食」に関して人々は動いてきたし、これからも動くだろう。流行りの食べ物、旬の食材、地域特有の料理など、話題に事欠かないのが「食」の魅力である。

私は食べ物が好きだ。食べ物に関する話も好きだ。食べることも大好きだ。胃袋が6つくらいあればいいのにと何度思ったことか。かといって、そんなにグルメでもないので、嫌いな物以外なら何でも大抵は美味しく食べるというお気楽食道楽である。そんなわけで今日の晩ご飯に目玉焼きとトーストでも全然オッケー。むしろウェルカムというわけで。

そうです。今日の晩ご飯は目玉焼きとトーストなんです。そして「この食事を楽しめるのって私くらいなものかしら」と不思議に思ったのでこうしてこの記事を食事を準備しながら書いているのです。私は朝ご飯みたいな晩ご飯でも楽しい。でも晩ご飯みたいな朝ご飯は起きたての胃袋が「いやぁ、この量は自分ちょっと無理ですね」と白旗をあげるので難しい。悔しい。一日中全力で食を楽しめる身体が欲しい。

さぁて、時計の針が22時を指していますが、今から目玉焼きとトーストをいただきますよ。

何をかけようかな。