記憶と記録と選択の話

映画を観た。美術館に行った。好きなミュージシャンのライブに行った。友達たちと遊んだ。素晴らしい買いものをした、などなど。そういうとき、私にはやることがある。自室の机の引き出しを開け、ノートを取り出すのだ。

 

日記、もとい、「いろんな半券ぺたぺたノート」をつけ始めて6年以上になる。

 

これは私だけじゃないと信じたいのだけど、はじめは文房具系の雑誌で特集されているような、カラーペンを何本も使ってイラストなどを書いて日々の記録をつけていくのに憧れて、しかし早々に挫折した。子どもの頃から「このノートはこれに使おう、このことを書いていって使い切ろう」と決意したことをやり通せたためしがないのに、たかが大人になったからといってなぜできるようになると思ったのだろう?だがまあ、ナイストライではあった。向いていないのを念のため再確認できたところで、鑑賞した映画の半券、観劇したお芝居の半券、素敵なお買いものができたお店や食事が美味しかったお店のショップカードなどを日付順にひたすら貼っていき、たまに文章や絵も書くスタイルでやってみることにしたのだった。

 

EDiT、ほぼ日手帳、ミドリノートなどを色々渡り歩き、今年はモレスキンを使っている。縦長なので、ちょっとしたチラシや長めのレシートなどをあまり折らずに貼れるのがいい。貼り続けていくとボリュームが増えるので、手帳全体を留めておくバンドがデフォルトで本体に付いているのもポイントが高い。

書き込むときは、私が持っている唯一の万年筆、LAMYのSafariを使う。色は私が一番似合う色、黄色。インクはブルー。軽いし、インクカートリッジを時折替える手間がかわいくてよい。

 

 

今回、記事を寄稿するにあたって、過去の日記を見返してみた。今ではすべて電子になってしまった、最推しミュージシャン・福山雅治のライブの紙チケットや、鬼籍に入られてしまった役者さんが出演されていた歌舞伎公演の切符などが丁寧に貼られていて、過去の私がそれらに捧げた愛情と、いつかこうして見返す私に向けた愛情がそこにはあって、思わずにっこりした。今でも変わらずにそれらを愛しているよ。

 

一方、鑑賞したと書かれている映画やお芝居の一部、これが驚くほど全然覚えていないのである。映画、こんなの観たか?どんなストーリーで、誰が出演していた?なぜ観に行ったのだっけ?このお芝居、どんなふうだった?まずい、全然覚えていない。覚えていたくて日記に残したはずなのに。

 

 

忘れるという能力は素晴らしくもあり、残酷でもある。好きなバンドやミュージシャンたちのライブで目撃したあらゆる瞬間を、いちいち覚えていたいんですけど!?たった数十メートル向こうにいて、あのセリフを話した瞬間のあの人の顔を、全部この目に焼き付けたはずなんですけど!?そう叫んで暴れ回るそばから記憶は飛んでいくってわけ。目と頭でシャッターを切ったもの全部を転写できたらいいのに。苦笑いしながら半券をぺたぺたと貼り、セットリストを書き込む。絵もちょっと描いたり。そうして私の日記ができあがる。

 

 

日記に書いていないこと、書かなかったこと、書けなかったことを思う。

どこかで読んだことだけど、「シェアすること」が当然のように美徳とされ、消費され続けているこのSNS全盛期においては、もはや「何をシェアするか」ではなく「何をシェアしないか」ということのほうが重大ですらある。紙の日記という、誰にもシェアしない前提であるものでさえ、何を書き、何を書かないか、何を覚えておきたくて、何を残したくないのか、に向き合うことをしているのだと思う。

 

 

最近、ここ数年で母とともにK-POPにハマってライブにも行くようになった妹と、ライブの思い出の話になり、こう質問された。「一番楽しかったライブって何?」。記憶を辿りながらそのとき話したのは、ましゃ(最推しミュージシャン・福山雅治の公式愛称)のライブのことだった。

 

(確か……)五十歳のお誕生日記念ライブに参加したとき、あんまり覚えていないけど、席がたぶん花道から十数列くらいの位置で、ましゃがその花道の、私のほとんど真横の位置で立ち止まって歌ってくれたことがあった。超満員の、自分のお誕生日を祝いに駆けつけたお客さんたちの前で、アコースティックギターを構えて一人で歌うましゃ、スポットライトを浴びてきらきらしていた。ぴかぴかのギターのボディが光を反射して、その白が私の顔をちらちらと差して、あたたかかった。ましゃも、ギターも、お客さんたちも、空間も、音も、全部輝いていた。パイプ椅子に沈んで、ずっと見ていた。死ぬなら今がいいと思った。

 

このライブのピクチャーチケットも、過去の日記に貼ってあったけど、この気持ちも思い出も、セットリストすら書いていない。ただチケットが貼ってあるだけ。でも覚えている。

 

日記をつけ始める前、その概念すら知らなかった頃、たぶん小学生の時、太陽の光を受けて輝く緑の木を下から見つめて、あーこれ覚えていたいな、と思ったことも覚えている。もうだいぶ記憶が歪んでしまっているだろうから、うっすら思い出せるその光景は実際とはかなり違うのだろうけど、とにかく覚えているし、これってかなりいい感じだと思う。こういう、覚えていたくて覚えていられることと、覚えていたいのにすぐ忘れちゃうことの違いって一体なんなんだろう?ただひとつ共通しているのは、それを覚えていたいと私が選んだということだ。

 

 

ぱらぱらとページを捲る。何かしら貼ってあるページ。文章や絵が描いてあるページ。何にも書かれていないページ。じゃあこの日には、この日からこの日までの間には、本当に何もなかったのか。そんなわけないじゃん。毎日何かしらが起こり続ける生活の中で、記録をつけてでも覚えておきたいもの、思考の軌跡を、しるべとしたいと決めたものを選んで、書く。これを呼び水とする。それで思い出せればいいし、思い出せなくても、まあ、それはそれで。

 

要するにちょっとした祈りなのだ。覚えていられますように、思い出せますように、こういうものたちで私ができていることをどうか確認できますように。

 

 

とまあ高尚なことを言いましたが、日記なんてものは適当に書けばええんですよ、見てこれ、全然覚えてないけどなんかいい感じのステッカー。

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寄稿者:ギズモ参謀 様

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